第5話
朝の目覚まし時計が三度鳴って、ようやく葵はベッドから身を起こした。
和也は昨夜、帰ってこなかった。
もう、驚きもしない。
洗面台の前に立つ。鏡に映る女は眼窩がくぼみ、唇に血の気がない。鎖骨の上の皮膚はひどく薄く、その下を這う青い血管が透けて見えた。
葵は髪をまとめ、首筋に残る青痣を隠した。一昨日の夜、和也が残した痕だ。
鎮痛剤のボトルから錠剤を二つ取り出し、水も飲まずに飲み込んで家を出た。
会社に着くと、デスクにはすでに新しい資料の束が置かれていた。
一枚目をめくる。藤原グループのPR企画案。昨夜、和也が押し付けてきたものとまったく同じだった。右上には付箋が貼られ、陳聡の字でこう書かれている。
『今日中に必ず初稿を上げること。藤原グループからの催促が厳しい』
葵はファイルを閉じ、陳聡のオフィスのドアを叩いた。
「入れ」
顔を上げた陳聡は、彼女だと気づくやいなやコーヒーカップを置いた。
「企画案は見たか?」
「見ました」
葵はデスクの前に立った。
「陳マネージャー、このプロジェクトはお受けできません」
陳聡の顔に、さっと不機嫌な色が浮かぶ。
「受けられないとはどういうことだ。藤原グループの指名なんだぞ。これは会社としての決定だ。個人の感情を仕事に持ち込むんじゃない」
葵は理由を説明することなく、ただ同じ言葉を繰り返した。
「お受けできません」
陳聡は立ち上がり、デスクに両手をついて身を乗り出した。
「葵、その態度は業務命令違反と見なすぞ。藤原グループとの提携はどこも喉から手が出るほど欲しがっている案件だ。お前一人のわがままで、会社にこれほどの利益を犠牲にさせるわけにはいかない」
「もし、やらないと言ったら?」
「会社の規定に従うまでだ」
陳聡は彼女を睨みつけた。
「無断欠勤、怠業、正当な業務指示への拒否。どれを適用してもお前の評価はゼロになる。年末の査定はもちろん、三ヶ月分の基本給もすべて凍結だ」
それを聞き終えると、葵はポケットから一つの封筒を取り出し、彼に差し出した。
「退職届です。本日付で」
陳聡は呆然とした。
静まり返ったオフィスに、エアコンの送風音だけが低く響く。
「正気か? 意地を張って辞めるというのか」
「意地ではありません」
葵の声には何の波立ちもなかった。
「一身上の都合です」
陳聡は青筋を立て、封筒を手に取って裏返すと、再びデスクに放り投げた。
「いいだろう、辞めればいい。だが退職金がもらえると思うなよ。無断欠勤として処理してやる」
葵は頷き、きびすを返してオフィスを出た。
自分のデスクを通り過ぎる際も、私物を片付けることはしなかった。そもそもあの机には、彼女の物など何一つない。マグカップでさえ会社からの支給品だ。
バッグを手に会社の正面玄関を出たとき、スマホが一度震えた。
暗号化チャンネル。コードネーム、K。
『M、退職の知らせが内部システムから同期された。受領確認を頼む。北米のプライベート・エクイティはすでに審査を通過した。来週正式に契約となる』
葵は一言だけ返信した。
『了解』
スマホをポケットにしまった途端、立て続けに別のメッセージがポップアップした。
和也だ。
たった一言。
『会社、辞めたのか?』
送信は早かった。会社を出てまだ十五分も経っていない。村田健太が藤原グループに知らせたのか、それとも和也の助手がずっと彼女の動向を監視していたのか。どちらかは分からないが、もうどうでもよかった。
彼女は返信しなかった。
二十分後、和也から電話がかかってきた。
「藤原の家に戻れ。今すぐだ」
命令するような口調だった。
葵はタクシーの後部座席で、窓によりかかってしばらく目を閉じた。鎮痛剤の効き目が切れかけている。胃が絞られるように痛み、少しずつ締め付けられていく。
彼女はタクシーの行き先を変更させた。
藤原家の別荘のドアを押し開け、葵が最初に目にしたのは寧々だった。
寧々はリビングのソファに座り、クッションを抱きしめている。メイクは完璧だが、目尻がわずかに赤い。泣いたあとに化粧を直したのだろう。
和也はフランス窓の前に立ち、ポケットに手を入れたまま、ひどく沈んだ顔をしていた。
葵が入ってくるのを見ると、寧々が真っ先に立ち上がり、小走りで近づいてきて彼女の手を握った。
「葵さん、怒らないで? 全部私が悪いの、私のせいだから……」
葵は、自分の手首を掴む寧々の手を見下ろした。強すぎず弱すぎないその力加減は、和也に『自分から歩み寄っている』と見せつけるのにちょうどいい。
「私のことで和也と喧嘩しないで。ましてや会社を辞めるなんて。PRの件なら、別の人を探すから」
寧々の声はとても柔らかいが、一言一言が的を射ている。
「昨日、和也が帰ってきて、あなたが手伝いたがらないって言ってたの。でも、あなたの気持ちはすごくよく分かるわ。私だって同じ立場なら、絶対に気にするもの」
そう言って彼女は和也を振り返り、少しすねたような声を出す。
「和也、葵さんを責めないで。彼女にも事情があるんだから」
この言葉は、表面上は葵を庇っているようでいて、実際は『嫉妬のせいで協力を拒み、意地を張って辞職した』という事実を決定づけるものだった。
葵は寧々の手から自分の手を引き抜いた。
大した動きではなかったはずなのに、寧々は突然ふらふらと二歩後ずさりし、ローテーブルの角にぶつかった。痛みに身をかがめ、短い悲鳴を上げる。
「寧々!」
和也が駆け寄り、寧々の肩を抱きとめた。
寧々は唇を噛んで首を振り、涙をこぼしながら震える声で言った。
「平気……私がよろけちゃっただけだから……」
和也が振り返り、葵を見た。
その眼差しを、葵はよく知っている。骨の髄まで凍りつくような冷たさ。
「お前、突き飛ばしたのか?」
葵は立ち尽くしたまま、反論も釈明もしなかった。
和也が寧々の脇腹を注意深く確かめるのを見つめ、彼が寧々にこう言うのを聞いていた。
「病院へ行こう」
寧々は首を振り、しゃくりあげた。
「いいの、本当に痛くないから……」
和也はすでに身をかがめ、彼女を抱き起こそうとしている。
その時、葵が口を開いた。
「藤原和也」
彼女はフルネームで呼んだ。
和也の動きが止まる。二人の関係において、彼女はこれまでずっと彼を「和也」と呼んでいた。
葵はバッグからクラフト紙の封筒を取り出し、ローテーブルの前に歩み寄ると、中から書類を引き出してテーブルの上に広げた。
離婚協議書だった。白黒はっきりと印字され、条項は明確で、弁護士の署名捺印も揃っている。
「サインして」
リビングは静まり返った。
寧々が顔を上げる。涙の乾いていない顔に一瞬だけ驚愕の色が走ったが、すぐに隠された。
和也は寧々を支えていた手を離し、身を起こしてテーブルの上の協議書を見下ろした。
それが何であるか理解するのに、数秒かかったようだった。
やがて、彼は低く笑い声を漏らした。
「葵、俺と離婚するつもりか?」
葵はローテーブルの向かい側に立ち、両手を体の横に下ろしている。指先は冷え切っていた。
「そもそも、結婚なんてしていなかったでしょう?」
和也の笑みが消えた。
葵は彼の視線を真っ向から受け止めた。初めて目を逸らさず、弱みも見せなかった。
彼女は言った。
「サインする場所には印をつけてあるわ。目を通して、問題がなければサインして」
和也の瞳孔が収縮した。
彼の背後で、袖口を掴む寧々の手が、葵からは見えない角度でそっと握り締められた。
